今回は、金沢にあった遊廓と、現在のそれぞれの姿について見ていこうと思います。
金沢の遊郭について
金沢の遊郭は、最盛期には、東新地、西新地、北新地、主計町、愛宕の5か所があったみたいです。
金沢に廓の誕生
元々は江戸時代(文政3年)に加賀藩12代藩主前田斎廣が浅野川のほとりと犀川のほとりに茶屋町をそれぞれ設けたのが始まりです。
よく言われる、遊廓(ゆうかく)という言葉の”廓(くるわ)”は囲むことを示し、遊里の周りを塀で囲んで、出入口に門番を設けたものでした。なので、当時の東廓や西廓は一帯を塀で囲まれたものでした。
東廓では赤色の線で示した部分が塀で囲まれていたみたいです。
このエリアは大規模な区画整理によって廓が整備されました。
西廓は区画整理は行われなかったものの、同様のものだったと思われます。
これが、現在の金沢を代表する観光地のひがし茶屋街とにし茶屋街になっているわけです。
明治時代の遊郭
明治時代に入ると、明治2年に主計町に茶屋町が作られます。
明治9年には芸妓と娼妓を明確化されました。
芸妓→芸を売りにする者。踊り、三味線、笛、太鼓など。
娼妓→いわゆる”遊女”
その結果、芸妓がいる廓は”花街”となり、各エリアの花街が踊りや太鼓など技を競い合うようになったそうです。娼妓がいる廓は”遊廓”となり、歓楽街的な色合いが強くなっていきました。
金沢の場合は、ひがし茶屋街や主計町茶屋街では芸妓の割合が圧倒的に高く、よって、芸妓が住むエリアがほとんどだったと推測されます。
(後に誕生した遊廓「愛宕」はおそらく、娼妓が多かったエリアなのでしょう。)
一方で、にし茶屋街は芸妓と娼妓の割合がほぼ同じで、芸妓の住むエリアはひがし茶屋街や主計町茶屋街に比べると狭かったのだと推測されます。
これが、現在の観光地としても影響しているのではないかと推測しています。市が全面アピールして観光地としているのは芸妓の住むエリアが中心なのでしょうね。
北廓の移転
明治18年には北廓が栄町、松が枝町(現在の武蔵ヶ辻近く)に認可されました。
実際にどこにあったのか推測してみました。
こちらは大正9年の区画を現代の区画と照らし合わせてみた図です。
赤色が大正9年と同じ道路、緑色が現在は存在しない道路となっています。めいてつエムザ南側から伸びる東西の通りが栄町、現在存在しない緑色で示した道路を書いたあたりが松が枝町だったみたいです。
おそらく、この範囲の中にかつての北廓があったものと推測されます。
さらに、道路の広さについて着目すると、先ほど示した区画の中央付近に、周辺と比べて明らかに広い道路があります。この部分を黄緑色で示しました。下の東西に走る太い道路は戦後に作られた道に対し、黄緑色で示した部分は、戦後間もなくの航空写真でも確認できます。
おそらく、ここが北廓の中心地だったのかと個人的に推測しています。
しかし、市制施行や北陸本線の開通に合わせ、人や物が集まってくる公設市場近くに廓があるのは相応しくないと判断し、明治32年に西廓に隣接する石坂地区に集団移転しました。
以後、5つの花街・遊郭が賑わっていたみたいです。
戦後の遊郭
戦後、1946年にGHQにより公娼廃止指令が出て、1956年(昭和31年)の売春防止法の完全施行まで、いわゆる”赤線”として半ば公認で売春がおこなわれていました。
1956年の売春防止法が完全施行されると、赤線内の娼妓がいるお店(カフェー含む)は続々と廃業したそうです。
金沢でも、芸妓と娼妓の割合がほとんど同じだった西廓・北廓エリアでは、東廓・愛宕や主計町に比べてダメージが大きかったものと思われます。
遊廓の現在
東廓、西廓、主計町は、格式高い花街となり、現在、観光地となっている、ひがし茶屋街、にし茶屋街、主計町茶屋街の三茶屋街は芸妓がいる、”健全”かつ、格式の高い花街となっています。
愛宕、石坂(北廓)は、庶民向けの女性街として繁盛したそうです。
そのうち、愛宕はひがし茶屋街に隣接しており、修景整備がされて、現在はひがし茶屋街の一部として組み込まれている部分もあるみたいです。娼妓も既にいない模様?
石坂は県道の建設で街を斜めに横切る形で、大半が県道の用地になってしまいましたが、現在もひっそりと”遊廓建築”として遺構が残っています。
そこで、金沢の観光ガイドには絶対載らない、石坂の遊郭跡をみてきました。あくまで建築的な観点・まちあるきの観点で見ていきたいと思います。
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参考文献
東・西茶屋街の歴史的経過と観光客誘引の差についての考察(2007年)
ひがし茶屋街 金沢観光では必ず訪れて欲しい風情残る場所「ひがし茶屋街」の歴史 (ビューティーホクリク)